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「ほんりゅう横浜」365号(2001年10月29日)よりから現在まで好評連載だったものをまとめました。

私の出会った子どもたち 

春休みの忘れ物

 春休み、子どもたちのいない教室で新年度の準備をしていたとき、引っ越し用ににまとめておいた段ボール箱の上に見覚えのある下手な字を見つけた。”忘れ物のシーサー(卒業制作陶芸作品)取りにきたぜー。ウシシ。二年間どうもありがとうございました。Aより”と書いてあった。
 Aの顔と、二年間の苦悩の数々が重い浮かんできて思わずジーンときた。在校中、問題行動をたくさん起していった子どもが休み中教室に入り込み、黒板にいたずら書きをしたり、ふざけた言葉や時には心ない落書きをしていくことはよくあることだ。だから余計にAの紙きれがポツンとおいてあったことに新鮮な感じがしてうれしかった。

授業妨害の始まり

 Aを担任した五年生の四月は、授業が成立しない、学級崩壊寸前のスタートだった。授業中のたち歩き、ざわつき、ないしょ話、私語、かけぐち・・・・・。心を込めて話しかけても容易に心を開かない。教師を(大人という方が正しいのかもしれない)信用していないんだなぁとつくづく感じた。そんな中でAはKを誘って授業妨害を始めた。
 私の注意した言葉を何回も大声で繰り返して言ったり、友達の失敗を冷やかしたりした。強くしかるとゲラゲラ笑って周りの笑いを誘うか、頭にきたと言って出てゆくのだった。
 A.Kに振り回されていてはだめだ。回りの子どもたちの学習意欲を失わせてはいけない。Aには悪いが残りの三十八人と心を通わせるか真剣に考えて行かないと大変なことになると思った。しかし、それは容易なことではなかった。               (D)365号

学級定数の悲劇

この学年は4年生の時4学級だったのが、児童数減により1クラス40人の三学級に圧縮されたのだ。さらにこの学年の悲劇は3年生の途中で1名の転出と転入で、三学級から四学級を繰り返していた。"法”の名でなさけ容赦なく編成替えさせられた子どもたちが落ち着いた学校生活を送れないのは当然だといえよう。
こういう学年はとかく敬遠され、担任のなり手がない。まして前学年で荒れていたなんていうとなおさらである。私で8人目の担任という子どもが、今さら先生を信用しろといっても無理だと思った。

仲間づくりへの取り組み
そうと決まったら腰を据えて子どもたちと学ぶ楽しさ大人の信頼、仲間づくりに取り組んでいこうと決心したのだった。さて問題のAとKは相変わらず自分勝手だが周りが落ち着き始めるにつれ、Aは乱暴を振るうようになり、友達をなぐる蹴るが多くなり、みんなからういていった。(D)366号


雨の中の捜索

六月末、隣の市へ徒歩で工場見学に出かける朝、友達と些細なことでけんかになりAは怒って途中から帰ってしまった。これまでにもAは何回か家に帰ってしまい、そのたびに祖母は電話口で嘆いていた。「先生、学校に行くようにいうんですが、ゲームばっかりやってて・・・・。きつくいうと、うるせえ、くそばばあ、というばっかりで・・・・」悲しげな祖母の顔を思い出しながら、今回は家に帰っていないかなと思ったので、強い雨の中泣きたい気持ちでさがしまわった。事故にでもあったら・・・と思うと気が焦る。学校からも応援を頼み捜してもらう。工場に問い合わせるとずぶぬれで一人できたという。Aはいつものイラついた顔ではなく、ほんの少し”悪かった・・・・”という顔をして玄関で待っていた。Aも私もずぶぬれでしかる気力もなく肩をたたいて見学に参加させた。一学期は、心身くたくたで正直夏休みが待ちどうしかった。

うれしい発見

二学期の始業式、恐れていたとおり、四月の最初と同じ雰囲気に戻っていた。夏休み中に何らかの手を打っておけばよかったとくやまれた。私はこの夏休み中Aに手紙一つ電話一本かけてやらなかった。

九月二週にはいったころからAの遅刻が目立ってきた。月のうち半数くらい遅刻してきた。授業中は全く、本・ノートを出そうせず、音を出す手遊びや、他の子への声かけをして授業妨害していた。なにより困ったのは勝手に立ち歩いてみんなの注意をひこうとすることだった。学習の遅れも大きな原因になっていたので個別指導や補習も試みるが応じようとしない。十一月、Aについて思いがかけないうれしい発見した。それは来年入学する新一年生の健康診断の日のことだった。学級で話し合った末、歓迎の気持ちを込めて、健診のとき、新一年生と遊んで上げようということになった。Aは校庭で的当てゲームの係だった。ふと見るとAの周りは小さい子たちで大にぎわい。的当てに失敗した子を上手に慰めたり、はずれた球をひょうきんに手でもって当たりに入れ直してあげたり、まるで寅さんのような感じが遊んであげていた。小さい子たちはどの子もうれしそう。見ていたお母さんたちも「いい五年生ですね」という。うれしかった。終わって教室でみんなで褒められ、照れながらもうれしそうにしていたA。これを機契ににAは皆と少し仲間意識をもちはじめ、学級の輪の中に入りはじめていった。(D)367号

女子の中に不穏な動き

五年生の二学期に入って,ついに女子の中に不穏な動きが目立つようになってきた。イライラを態度に表し,とげとげしてきた。私に面と向かってすごい言葉で当たってくる。四つぐらいあるグループが互いに反目しあっったり牽制し合っている。グループ内にも上下の関係があり特有の暗く、激しい言動の中で男子が怖がっていった,彼女らは回りの人にどう思われるか,人の目ばかり気にしていて孤立することを恐れていた。

そんな時に,関わろうものなら,教師により一層激しくイライラをぶつけてくる。理不尽な物言いにかっとなるが注意などすれば火に油を注ぐようなものだ。そんな時は腰を据えて聞いてやるしかない。

ひとすじなわではいかないぞ

彼女らのイライラの原因は,うるさい男子への不満,教師や親への不満などいろいろある。また複雑な家庭環境,ゆがんだ生い立ち,ゲーム漬けの生活,親の過干渉,ラブ欠(愛情をかけられていない)など思い当たる原因がひとりひとりにみんなある。これはひとすじなわではいかないぞと改めて思った。案の定,掃除もダラダラやり授業中の発言もめっきり減ってきた。教師ばかりが張り切って明るいトーンで接するが,皆の中で自分が浮いているのがわかる。(D)

   香水の正体は飴だった
 数人の男子が「女子って香水っけてるんだな。飴みたいないい匂いがする」と言っているのを耳にした。待てよ!と思ってよく観察するとやはり香水の正体は飴だった。
 ずばり「学校で飴を食べた人?」と聞くと、ぽっりぽっりと立ち始め、女子十六人が食べていた。放課後だけだと思っていたら何と昼休
み、中休みもトイレで飴をなめていたことがわかった。他のクラスにも、もちろん波及していた。前の日ボケットに入れ忘れていたお菓子を口にしたのが発端だったようだ。

   私の苦戦
 情けない気持ちで怒る気力もわかなかった。例によって頭ごなしの説教は逆効果なので放課後残って事情を聞くことにした。みんな口々に誰から何回もらったとか誰いことをしたと反省する声も出てきた。
 しかし、半数.ぐらいの子どもたちはちっとも悪いことをしたと思っていなかった。
 「先生だって休み時問にコーヒーやお菓子食べてるじゃん、どうして子どもだけいけないんですか」
 「自分のお金で買って食べて、授業中はやめているんだからいいじゃん」
 「あたしたちだって疲れんのよねえ、先生と同じじゃん」
 子どもの権利条約の意見表明権を学習したときのことが私の頭にちらついた。彼女らは勝ちほこったかのように理屈をいいたてた。私は〃うるさい、子どものくせにだめなものはだめなんだ!〃と言いたくなったが、必死の思いでふみとどまった。一時休戦して職員室にもどって同僚に話すと、私の苦戦に同情半分、嘆き半分の反応だった。
     話し合いは再開した
 なぜ子どもは学校で飴を食べていけないのか、そして大人はなぜ食べていいのか・…。ちよっと卑怯な(?)やりかたかなと思ったが、とっさに労働基準法をもち出して応戦した。
 「私たち大人は法律で途中に休憩、休息をとるように決められているんだ、休憩のとき疲れを回復するためにお茶やちょっとした甘みをとることも働くものの権利として守られているんだ・・・・」と話して聞かせた。
 そんなん、ずるいじゃん。
 いやずるくない・・。
  子ども相手に「労働者の立場」について熱弁をふるってしまった。
 煙りにまいたようなところもあったが、この『法律論』でちよっと『大人』を感じたらしく事態は終息していった。
  最後に論客の一人が「でも先生、コーヒーの匂いをさせて教室に来ないで。あの匂いに私たち誘惑されんのよね!!」というと「そうそう!」の大合唱。
「はい、わかりました」と約束して以来、うがいをしてから教室に行くようにした。
 五年最後の、女子による総反撃だったが、さわやかな思いが残る事件だった。本音でいいたいことをぶっけてくれる子どもたちの相手は大変だがおもしろいと思った。
       六年の始業式
 担任発表の時、歓声こそないがブーイングも起きず、まずまずのスタートをした。
 〃この先生とやるっきゃないな〃という顔をしている。
 学級崩壊寸前の去年を思うと穏やかなスタートだ。
 四月末、突然のように女子の間ではやっていたカラーペンが大量に無くなると言う事件がおきた。〃犯人〃さがしはできないがほおっておく訳にはいかない。軽く扱っただけでは盗られた方の気もおさまらないし、盗った側のためにもよくない。物がなくなるくらい、いやな事件はない。無くなったペンの数は数十本。なくなったかと思うと戻っていたり、とってもいないのに他の人のペンが自分のペンケースに入っていたり・…と誰がやったか特定しないように撹乱しているかの様だった。
 みんなが自分じゃないと言い、被害の怒りだけをいいたてる。そんな時、清掃担当の特別教室のカギが無くなった。数日間マスターキーで開け閉めしていたが、Nが持っているということが分かった。休日学校に入って遊びたかったんだという。Nはちょっと淋しそうな表情の子で忘れ物をしたり、失敗すると言い訳したり、取り繕うとする所がある子だった。
 カラーペンについてもNらしいといううわさも聞こえてきた。私の制止をふりきって、例の強い女子たちが
 〃いったい誰なのよ、とったんならとったっていえよ〃とわめき立てる。
 〃人の物をとっていいわけ!〃と私にもくってかかる。
 こういう中で、Nと一緒のグループの一人がそっと打ち明けてくれた。
 Nは絶対自分じゃないと言い張ったが、外が暗くなりかけた頃、やっと自分がやったといってくれた。
 言い訳に言い訳を重ね、自分を弁護し、人のせいにし涙でぐちゃぐちゃになりながら打ち明けた後
 〃先生このこと絶対にお母さんに言わないで〃という。その異常な必死さが今まで見てきた子どもたちと違っていた。理由を聞いても言わない。一見普通に見える母と娘だが恐れる何かがあるのだろう、確かに自分本位の所がある母親で以前に或ることで、一方的に言いたいことをいってこちらの言い分を聞き入れようとしない事があった。わたしがNに母親には話さないと約束し守った。
 Nは、つらそうにみんなに謝った。
 Nを許してやってほしかった。こんなに隠れた所でこんなに複雑な思いでしてしまったNを哀れに思った。
 しかし、そんな簡単にみんなはNを許さなかった。一番激しくなじったのはFだつた。口汚い怒り方は聞くに耐えない。激高すると扱いにくいFとその周辺からNを守り、〃許し合う〃事がうまくいったとは思えなかった。Nは数日後、Fのロッカーの中の服に墨を故意につけてしまった。大騒ぎの後、Nが私に言ったことは
 「先生、お母さんに言わないで」だった。
 Nが背負っているものが何かわかってやれない、助けてやれない自分が歯痒かった。Nは自分がとったのは数本だけだと言う、信じてやりたい。真相はわからないまま終わった。

         クラスの沈静化
 目に見える〃悪さ〃や荒々しい言動はむしろ扱いやすい。そういう例は教師からの声かけも多く、考え様によっては得をしていると思う。AやFは全校に名を知られ、良きにつけ悪しきにつけ声をかけられ話題に事欠かない。しかしNやそのグループは目立たず名前を覚えてもらうこともない。
 ペン事件は起こるべくして起きたと思っている。
 その後、Nは、表面的かもしれないが受け入れられ、Nも健気に周りに気を使っていた。あんなに手こずり激しく泣いたのにケロッと私に人なつこく話しかけてきた。守ってもらえたという安心感なんだろうか。
 でも、Fを始め数人の強い子たちは〃決して許してないぞ〃というアピールを時々見せていたが私は軽く受け流すことにしていった。グループ間のごたごたやけんかは絶えなかったが行事や学年のいろいろな取りくみを頻繁に行うことによって大きな事件に発展することはなくなっていった。

書かされるから書いてやる書こうじゃないか

 このころ、彼らの書く文が変わっていった。
 「書かされる!」から「書いてやる!」「書こうじゃないか」という感じで紙に自分の考えをぶつけてくる子が多くなった。
 「自分に甘くないか?」とか「人はどうして偏見をもつのか」など投げかけ、感想や意見を書かせた日は、他のことは後回しにしてでも、その日のうちに読み切りたくなったものだ。もちろん原稿用紙一枚がやっとという子もいたが四〜五枚書く子もいた。
 その中で,IとSの文を紹介しよう。IもSもクラスの中では受け入れられていない。どちらかというと偏見をもって見られている子だ。

Iさんの場合
「偏見……私はこの言葉を聞いて、自分の心を見すかされたような気がした。
 私は自分で言うのもへんだけど〃偏見マン〃だ。三年の終わりころかなあ、よく人を疑った。
 二年の始めにOさんは転校してきた。その時の私の大の親友はAちゃんだった。転校してきてすぐOさんはAちゃんを親友にした。その頃、Aちゃんを取り返したくってしょうがなくて・・、今思えばOさん悲しくてさびしかったんだと思う、でもたった八才で友達をとられ、(その当時はそう思ってたんです。お恥ずかしい。)うらぎられ・・世界初の八才で世をすねにすねた、ちょうナマイキなガキが誕生したのである。その頃から単独行動を好むようになった私。それがいけなかったのか四年になった時から〃凶暴、がさつ、きったねえ〃などのうわさで一人になった。男子なんか私が通るとよけ、(その時は悲しかったがなれるとわたしはえらいんだぞっ、さがれって感じで、いふうどうどうしてたっけね。これ、おもしろかったんだ。)ふれると、消臭スプレーかけるふり(防きん?)してた。もう悲しくってトイレで一人で泣いていた。そのころ私はクラスの中でX君の次の困り者でした。」

皆と気軽に話してみたい
 Iは自分のことを良く見つめ、分析できる子だった。ちょっとっぱった物言いもするが素直に、私のどこがいけないんでしょうか、私が悪いんでしょうか、先生教えてください、と書いてくることが多かった。
 「私は五年になってから、泣く数が減ってきたが、いつでもしらーって感じで皆から偏見もって見られていたんだ。私もちょっと話しただけで、すぐこの人だめ!あいつだめ!って感じで人を見ていました。
 いつになるかわからないけど絶対、〃偏見〃をなおして皆と気軽に話してみたいです。」
 Iは六年になって長文の小説(本人はそういっていた)をワープロで書き始めた。途中経過を私や親しい数人に見せることで所属感を深めていった。(D)
   
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