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2001年1月22日

神奈川県教職員人事評価研究会様

子どもと教育・くらしを守る神奈川県教職員連絡協議会 議長

『人材育成及び能力開発を目指した教職員の人事評価のあり方について』に対する意見書


はじめに

 日頃から神奈川の教育に深いご理解を寄せられていることに心から敬意を表します。
 早速読ませていただくとともに、意見書を下記のようにまとめました。
 わたしたち子どもと教育・くらしを守る神奈川県教職員連絡協議会は、県下の市町村立の義務制の小・中・養護学校の教職員で構成されています。現在までわたしたちは、憲法・教育基本法・学校教育法に基づき、子どもたちを平和的で民主的な社会の形成者として、その「人格の完成」をめざし、一人ひとりにゆきとどいた教育を保障するため学校での実践と、学校施設・設備や学級編制基準などをはじめとした、さまざまな改善を、教育行政に対して行ってきたところです。
 今回示された資料の方向は、これからの教職員のあり方と学校教育に重大な影響を与えるものとして強い関心をもっています。現場の教職員の立場で、率直に意見表明をさせていただきました。記述した内容について委員の皆様のご理解を切望するものです。

1、今学校に問われていること

 今学校に問われているものは、いじめ、不登校、低学力、などを克服し、児童・生徒を一人ひとりを豊かでいきいきとした学びの中に導くことであることは、ご指摘の通りであると思います。
 そのためには、言葉や文章の意味がわかり、自分の思いや考えを伝えたり、社会生活に必要な計算ができる、自然や社会のしくみが「わかる」など、まず基礎的な学力を、義務教育の中で、すべての子どもたちに身につけさせることが必要になっていると思います。残念ながら、少ない費用で効率的に教育を進めるという長年の文部行政の中で、「競争と管理の教育」が行き渡り、ともに学ぶ喜び、助け合う喜びが、学校現場から薄れてきています。競争の中で、友だちの良さを感じ取ることよりも、遅れている面をあげつらったり、低学力や管理についていけない子どもたちが非行に走ったり、不満のはけ口を学級崩壊という形で表現しています。
 私たちは、子どもたち一人ひとりが豊かでいきいきとした学びを学校教育の中で経験するためには、学習内容にふさわしい時間的・人的・空間的な条件整備がまず必要であると考えています。そのためには、30人以下学級の実現や学習指導要領の内容の大幅改善をはじめとした教育条件整備こそ第一に教育行政が取り組むべき課題であると思いますがどうでしょうか。

2、教職員としての人材育成や能力開発・活用のための人事評価のあり方について

 (1)人事評価結果が給与等の処遇に反映するものであれば、またその導入を容易にする数値式評価は、学校教育を破壊するものになるので、そのような人事評価には反対します。
 P18の「その他議論された意見等」の中にもあるように、完全無欠の評価はなく単年度で評価できない側面が多くある教職員の人事評価は、あくまで、教職員の人材育成、能力開発・活用のためのものであるべきであると考えます。
今日の深刻な教育をめぐる状況の中で求められていることは、教員個人を「給与や処遇」と結びつけて管理職が評価し、教育活動に競争を持ち込むことではありません。大切なことは、教職員が教育実践の技術や課題を共有し、協調・協力できる教職員集団を学校の中に創っていくことが最も重要です。管理職にはこのような教職員集団を組織していく責務があります。しかし、管理職の、どうやっても部分的で主観的と受け取られる人事評価が、教職員の給与や処遇に連動することになればその責務の遂行をはかる上で障害となり、本来の目的が達成されません。具体例をあげれば、教職員が、いつも管理職を給与や処遇に大きな影響を与える評価者として意識し、言うべきことも言えず、ひいては学校経営が滞る事態も予想されると考えます。
 勤務年数などの客観的な基準を基にしない人事評価を、教職員個々の給与や処遇に結びつけることは、教職員集団の協力体制を壊すものです。また、教職員個々の意欲が高まるどころか、「自分が一生懸命やることが、子どもたちのためというよりは、個人的な『立身出世』や『賃上げ』のためと思われるのではないか」と互いに疑心暗鬼になり、思い切った教育活動を行なう上での障害になってしまいます。

(2)給与についての「成績主義」は違法であり、反対します。
 また、教職員を含む地方公務員の勤務条件(給与、勤務時間その他の勤務条件)については、法律、条例、人事委員会で定めた規則などによって定められています(地方公務員法24条6項勤務条件法定・条例主義)。この趣旨は、法律、条例等によって職務と責任に応じた安定的な給与の支払いの保障です。全体の奉仕者としての職務を全うする公務員として当然の待遇です。だからこそ法律に定められているのです。成績主義による賃金は、その本質において、賃金についての人事権者による一方的決定であり、恣意的にならざるをえません。このような一方的決定は給与の安定性、職務と責任に対応する公務員の給与基準となじまず違法となります。だからこそ、今年の4月から実施される神奈川県の一般行政職員の人事評価システムには、給与や昇任昇格は連動されていません。さらに勤務条件法定主義は争議行為制限の代償措置でもあります。地方公務員も憲法28条の「勤労者」であり、労働基本権を享有し、団結権、団体交渉権も保障されています。そこで、地方公務員の給与と手当の額の決定(地方公務員法24条3項)は、労使の団体交渉を経て決定され、条例化されることを憲法は不可欠なものとして要請しているのです。したがって、給与・処遇に連動する人事評価システムを万一導入する意向があるのなら、労使交渉が不可欠となりますが、どうお考えですか。私たちは、東京都のように「管理運営事項」ということで一方的に導入することは、勤務条件法定主義に違反することは明白だと思っています。

(3)管理職に「自己申告」し、「目標管理」により評価を受けるスタイルは、管理にはは有効であっても、教育活動にはなじまず、導入すべきではないと考えます。

@「自己申告」「目標管理」の基になる「学校(教育)目標」は、本来、その学校にかかわる構成員すべての思いが反映されるものであり、保護者・地域・子ども教職員の意見反映を受けた形で決めるべきものです。校長に説明責任があるからという理由で校長が専決するのでは、校長が変わるたびに「学校目標」が変わってしまいます。また、校長の考えだけで決めたものは、達成しようとする意欲も子ども・保護者・教職員ともに強くなりません。学校目標の決め方について考えをあらためてほしいと思います。

A教育は「人格の完成」(教育基本法)を目的にし、教職員集団によって行われるため、集団(学年、教科、分掌)の評価を抜きにして、個人を対象とした管理職の評価は、学校の教育力を高めるものにはなりません。
 また、その評価が「公平・公正」で、「客観的基準」を求めたとしても、多様な教育活動を一定の基準で評価することは困難であり、むしろ創造的な取り組みを阻害する結果を導きかねません。数値式の評価の導入は、職員間の競争・分断につながり、協業体制を壊しかねないものであり、導入すべきではありません。更に、教員個人への「管理職の面接による方向や内容についての指導・助言」には、教員の視点を子どもの実態よりも管理職の意向に向けてしまう危険が拭い去れません。

B教職員の納得のいく公平性を保つためには、評価結果の本人開示と不服申し立てや苦情の処理などのシステムの確立は必要不可欠の事だと思います。

C障害児学校・学級の教育活動は、とりわけ障害に応じた専門性、共同性が必要とされます。それを個々の教員の教育活動に分割して評価することはできません。
 また、障害児学校の校長や障害児学級が設置されている学校の管理職が、必ずしも障害児教育の専門家とはかぎりません。

(4)管理職の評価者としての職務内容が多すぎて本来の職務が全うできません。
客観性・公平性を求めたり、多面的に評価する必要から、評価項目が複雑多岐になり、評価者訓練のための研修や目標管理のための面接、日常的な人事評価などで管理職が多忙化することは目に見えています。
 さまざまな職務があり、激務になっている現状に、このような人事評価の仕事が加われば、どれもこれも不十分な執行になり、企図している人事評価も信用度の薄いものになってしまいます。
また、現在の管理職登用システムは客観的基準が公に示されていない市町村が多く、そのことも今後、「評価」の信憑性・妥当性に関わってくると思いますが、そのことについての検討は、なされたのでしょうか。

3、「特色ある学校づくり」を無批判にすすめることに反対します。


(1)憲法で保障された「普通教育」という観点から

 憲法26条2項「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。…」とあります。普通教育とは、普遍的で共通な教育のことであり、現在の義務教育機関である小学校・中学校で行うことになっています。しかし、現在の小・中学校で、この普通教育の部分が、指導要領の度重なる改訂により、実際には、すべての子どもたちに基礎学力を定着させることが困難になっています。
 例えば、小学校で6年間で、基礎教科である国語・算数・理科・社会の4教科の授業時数は、1971年には3941時間あったものが、2002年には2941時間と1000時間の減になります。また、生活科〜1・2年で社会・理科合科的なもの〜207時間、総合的学習430時間を入れても363時間の減になります。(生活科や総合的学習の目的は、基礎学力を身につけさせるものではありませんし普遍的で共通な内容のものでもありません。)国語で学習する漢字だけ見ても、1年生で1961年には46字だったものが、1992年からは80字になり、他に、ひらがな、カタカナ、数字などを身につける大切な時期に、すでに学習内容がわからなくなる子どもがでています。算数の九九も2年生の第2学期のわずかな時期に全てを「習得」させることになっています。授業での学習内容が理解できないことが、今日の「学力低下」問題や、非行・いじめ・不登校の根源になっています。しかし、現在進められようとしている「教育改革」の一環である2002年から完全実施の指導要領は、さらに基礎教科の授業時数を減らし、子どもたちの基礎学力の定着を阻むものとして問題になっています。今、「特色ある学校づくり」以前の問題として、公立の小中学校で「普遍的で共通な」基礎学力をすべての子どもたちに保障する学校づくりのために、教育行政や学校運営のあり方を見直すべきだと思いますが、いかかでしょうか。

(2)「地域に根ざした学校づくり」という観点から
「地域に根ざした学校づくり」という点で、わたしたちは「特色」を歓迎します。
そのためには、各市町村で行われている、管理職で3年や一般教職員で10年が限度とされる現在の異動システムを改善することが、地域との連携を容易にするものと思われます。人事評価以前の問題として、異動人事のシステムの見直しをまず第一に行ってほしいと思います。(P8.14行目「外部との連携」とも関連)

4、「学校現場の状況と求められる教員像」(P8)について、厳密に調査し検討されたのか疑問です。
10行目〜15行目「しかし、教員の活動は…回復が困難といわれている」の部分について


(1)」「学校の常識は世間の非常識」とは具体的にどいうことを根拠に「いわれている」のか、検討されたのでしょうか。
一部の事件におけるマスコミの報道が、全ての学校や教員にあてはめられてはいないか、疑問です。もちろん、わたしたちも教職員に全く責任はないなどとは思ってはいません。しかし、一部の問題から全てを判断する危険性について言及しているのです。むしろ、県立高校で、学校予算の貧しさから、教室の窓側の蛍光灯を外したり壊れた施設や設備を危険を承知で放置したり、小・中学校より貧困な図書室の蔵書量などの状況の方が、世間の非常識になっています。ぜひ、委員の皆様が、県立諸学校を見学され、およそ時代や社会の変化に対応できないものであることを看取していただきたいと思います。

(2)「教員の活動は、相互に干渉せず、前例踏襲的・画一的になりがちといわれ」……「『なべぶた型』組織といわれる学校では、教員間に均質的な横並びの意識が依然として強く、社会の変化に即応した意識改革がなされず、教育改革への組織的取組も滞りがちで、学校の活性化が進まない面がある。」については、大きい疑問があります。
 憲法23条、同26条をうけて教育基本法6条では、学校は「公の性質」をもつものとされ、「学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その遂行につとめなければならない」(2項前段)と規定されています。そして、同法10条では「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し、直接に責任を負って行なわれるべきものである」とされています。また、学校教育法28条6項には「教諭は、児童の教育をつかさどる。」とあります。(戦前は「訓導〜今の小学校教諭〜は校長の命を受け教育をつかさどる」でした。)これらの規定は、教育について国家の命令権をもって実施した、戦前の軍国主義教育の反省の上にたって教育の営みそのものと教育行政を相対的に区別し、教育の営みを教育長や校長、教頭を通じてなされる教育行政で統制したり支配することを禁じているだけでなく、教育の営みそのものは、教員(集団)が児童(国民)に対し直接行うものであり、直接責任を負うことを示しています。つまり、教員は、教員を雇っている機関(都道府県や市町村)を媒介にして国民(子ども、保護者、地域住民)と結びついているわけではなく、国民に直接の責任を負っているのです。だからこそ、教員は、その職責の遂行のためには、「身分は尊重され、その待遇の適正が期せられなければならない」(教育基本法6条2項後段)と規定され、「教育公務員の職務とその責任の特殊性に基づき、」教育公務員特例法が定められているのです。雇用する当局の思惑とは相対的に独立して身分保障がされているのです。だからこそ、上意下達の組織ではなく「なべぶた型」の組織となっているのです。「相互に干渉せず」とはその権限を尊重する立場ですから、「干渉」ではない助言や相互批判、相互研修は学校内で日常的に行われています。また、学校は組織ですから、学校全体や学年を単位として行う教育活動が、何の必然性もなく、コロコロ変わることはありえません。しかし、どの学校も一つの学校行事が終わった直後と、学年末には、様々な子どもたちの成長と変容をはじめ、様々な角度から反省をし、次年度の計画を立てています。その実態をご存じでしょうか。「前例踏襲的・画一的になりがち…社会の変化に対応できない閉鎖性」という否定的な表現は、やはり、いじめ・不登校・薬物乱用・暴力行為があとを断たないいらだたしさや「子どもの通っている学校がおかしいのではないか」という気持ちが学校批判に短絡されていると思います。今日の自然環境の悪化や経済的な落ち込みのなかで、家庭崩壊が進行している一般的な状況下では、昔のようにのんびりと個人的な力量のみで子どもたちの健やかな成長がはかられることはありません。現在の先進国としては貧しいと言わざるをえない施設・設備・人員配置・教育予算の中で教職員集団として必死で教育活動を行って、やっと現状なのです。精神疾患にかかる教職員が増えていることも今日の学校教育の困難さを物語っています。横並びの意識が強いと、なぜ、「社会変化に即応した意識改革がなされず、教育改革への組織的取組も滞りがちで、学校の活性化が進まない面がある」と言えるのでしょうか。(神奈川県下や日本全国の中で、学校組織を上意下達の組織にして、一人ひとりの子どもが豊かにいきいきとした教育活動ができた例があればお示しください。)校長の権限も教職員の権限も互いに認め合いながら、通学している子どもたちの実態をよく理解して、より適切な計画を立て、より適切な指導をするには、教職員の間での話し合いと意思疎通が重要なことはおわかりになると思います。現在の学校は、教科学習と教科外の学習について、校務分掌を設けてそれぞれ組織的集団的に教育活動を行っています。必要であれば、教職員全員の会議をもって意思統一をし、学校運営を行っています。上意下達だと社会変化に即応でき、教育改革への組織的取組もスムーズにいき学校の活性化が進むというのは、「一定の考えや方向」を、“子どもの教育をつかさどり、全体の奉仕者である使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない教員”の納得も得ないで学校や子どもたちに持ち込むには、都合の良い手法かもしれせんが、国民に直接責任を負う教育という立場からみると、上意下達より「合意」が必要であり、とうてい納得のゆくものではありません。

おわりに

 未来を担う子どもたちの深刻な現状を何とか良い方向へ向かわせたいという願いは大人たちにとって共通のものです。そのための新しい学校づくり、そのための人材育成、能力開発・活用をはかることには異論はありません。そしてそのために有効な人事評価を導入ならば、現場の教職員の大方の合意が必要です。また、広く県民の声や学校教育を受けている子どもたちの意見も聞くべきだと思います。県の職員の人事評価システムの導入にあたって県の職員労働組合が2659人分のの「新たな人事評価システム」についてのアンケート回答を集約し、システム実施の内容の検討の大きな参考となったという経過があります。貴研究会におかれても、今回の各団体の代表者の意見(資料配付から意見書提出まであまりに期間が短く、多くの教職員の意見反映は実際はできていません。)だけでなく、多くの教職員や県民、子どもたちの声を反映する具体的な手立てをとられ、厳密で精緻な議論のうえで、「学校の子どもたちや保護者、教職員を励ます実りある人事評価のあり方」の結論を出されることを期待します。

以上

連絡先
子どもと教育・くらしを守る神奈川県教職員連絡協議会事務局長

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